「合意は間もなく」は、もう何度聞いただろうか
原油価格は落ち着きを取り戻し、株式市場では「中東リスクの後退」が好材料として語られている。ホルムズ海峡の再開、停戦の延長、米イラン合意の署名——こうした見出しが連日のように流れ、相場は「もう山は越えた」という空気に傾きつつある。
だが、ここで一度立ち止まりたい。前回までの記事で繰り返し書いてきたとおり、派手な見出しと実態には、しばしば大きなズレがある。日経平均の「最高値」が一握りの値がさ株に支えられていたのと同じように、「中東情勢の緩和」もまた、その中身を分解すると見え方がかなり変わってくる。
今回はホルムズ海峡問題の現状を、(1) いま実際に何が起きているのか、(2) 交渉の本当の難所はどこか、(3) トランプ大統領の発言をどこまで信じるべきか——という3点から整理しておきたい。
現状整理:止まっているのは「作戦」であって「封鎖」ではない
まず事実関係から。米国はホルムズ海峡で民間商船の通航を護衛する「プロジェクト・フリーダム」を展開していたが、トランプ大統領は5月5日、外交交渉に期待をかけてこの作戦を短期間停止すると発表した。
ここで多くの人が誤読しがちな点がある。「作戦の停止」と「封鎖の解除」はまったくの別物だ、ということだ。トランプ大統領自身、イラン港湾への海上封鎖は「全面的に維持」すると明言している。作戦停止後もイラン側のホルムズ海峡での通航制限は続き、ペルシャ湾内には依然として多数の商船が足止めされる異常な状態が報じられた。
そのうえで5月下旬、パキスタンなどの仲介により、停戦を60日間延長し、ホルムズ海峡を開放する方向で調整が進んだ。報じられた覚書(MOU)の草案では、イランが海峡で通航料を取らず自由航行を認める一方、米国は海上封鎖を解除しイラン産原油の販売を認める、という骨格だった。5月28日には60日間の停戦延長と核協議の開始で「暫定合意」に達したとも伝えられた。
ただし——ここが重要だが——トランプ大統領はこの条件にまだ同意していない。バンス副大統領も「いくつかの文言を巡って調整を続けている」と述べるにとどまる。つまり現状は、「合意間近」と報じられながら、肝心の最終署名には至っていない膠着状態だ。
整理すると、いま動いているのは2つの別々の時計だ。ひとつは「停戦・物流の正常化」という短期の時計。もうひとつは「核問題の解決」という構造的な時計。この二つを混同して「中東は解決に向かっている」と一括りにすると、相場でも実務でも判断を誤る。
交渉の本当の難所:濃縮ウランのレッドラインは動いていない
では、なぜ「合意間近」がこれほど長引くのか。答えははっきりしている。双方の濃縮ウランに関するレッドラインが、本質的には一歩も動いていないからだ。
経緯を見ておこう。米国は当初、ウラン濃縮の「完全かつ恒久的な停止(ゼロ濃縮)」を要求していた。その後、態度をやや軟化させ「20年間の停止」を提案したと報じられた。さらに、イランが保有する高濃縮ウランの国外搬出も求めている。
対するイランは、停止期間を「数年(5年程度)」に短縮するよう求めて難色を示し、高濃縮ウランについても国外搬出ではなく「監視下での希釈」を主張した。そして何より、イランはNPT(核拡散防止条約)を根拠に「ウラン濃縮の権利」そのものを譲らない。この一点が、交渉が根本でかみ合わない理由だ。
これは単なる数字の値切り合いではない。イランにとって濃縮の権利は「主権」の問題であり、米・イスラエルにとっては「核兵器に転用可能な能力をゼロにする(ブレイクアウトを封じる)」という安全保障の根幹だ。一方が主権、もう一方が安全保障の核心を懸けている以上、ここは「中間点で握手」が極めて難しい領域である。
実際、報じられた覚書の草案でも、イランは「核兵器開発の放棄」を改めて約束し、「濃縮活動については交渉に応じる」とされているにすぎない。つまり最大の難所である濃縮問題は、解決されたのではなく『これから交渉する』と先送りされただけだ。停戦やホルムズ再開という「比較的合意しやすい部分」が先に動いても、その下で最も硬いレッドラインは手つかずのまま残っている。だからこそ「合意間近」が何度も繰り返されながら、本署名に届かない。
トランプ大統領の発言を、シグナルとして信用できるか
そして、もう一つの論点。市場が反応している「合意間近」報道の多くは、トランプ大統領自身の発言や投稿が源だ。これをどこまで投資判断のシグナルとして信用すべきか。
率直に言えば、彼の発言は希望的観測に振れる傾向が強く、シグナルとしての信頼性は低いと見るのが妥当だろう。根拠は彼自身の発言の履歴にある。これまでも繰り返し「合意に近づいている」「間もなく発表する」と述べてきたが、その後も膠着は続いてきた。自陣営が詰めた条件にすら本人がまだ同意していない、という現状がそれを象徴している。
加えて、彼の物言いは振れ幅が大きい。一方では「完全かつ最終的な合意に向けた大きな進展」と楽観を語り、他方では交渉が滞れば発電所や油井、ハルグ島、海水淡水化プラントまで破壊すると最後通告で脅す。「合意間近」と「全面破壊」の間を激しく往復する発言は、相場が拠り所にできる安定したシグナルとは言いがたい。
もちろん反対の見方も成り立つ。仲介国を巻き込んだ交渉の枠組みは現に動いており、「ディール」を演出するトランプ流の瀬戸際戦術が、最終的に何らかの形で着地する可能性はゼロではない。だが、それは「願望が当たるかもしれない」という話であって、確度の高い前提として相場に織り込むべき材料ではない。
投資家・実務家としてどう構えるか
ここまでを踏まえると、結論はシンプルだ。いま起きているのは「解決」ではなく、せいぜい「一時停止」である。
- 60日間の停戦延長やホルムズ再開が実現しても、それは時限的な棚上げにすぎず、濃縮ウランという根本のレッドラインは未解決のまま残る。
- したがって、ホルムズの再封鎖・停戦崩壊というテールリスクは消えていない。市場が「中東リスク終了」を完全に織り込んでいるとすれば、それは「一時停止」を「解決」と取り違えた楽観だ。
- このリスクは、原油・資源価格、それに連動する素材・商社・自動車(資源高はコスト増要因)、さらにエネルギー主導の物価上昇を通じた長期金利(JGB)にまで波及し得る。前回トヨタの記事で触れた「資源高・供給不安」の逆風は、この中東リスクと地続きだ。
相場が楽観に傾いているときほど、自分のポートフォリオがその楽観に過度に乗っていないかを点検したい。「合意間近」の見出しに資源株のショートや原油の下落方向へ一方的に賭けるのは、レッドラインが動いていない現状では危うい。逆に、停戦が本当に定着すれば資源高は和らぐ——どちらに転んでもいいように、シナリオの両面を持っておくのが、この局面での現実的な構えだろう。
派手な見出しは、相場が最も楽観に傾いているサインでもある。日経平均でも、キオクシアでも、そしてホルムズ海峡でも——見出しの強さと、実態の確かさは別物だ。この区別を手放さないことが、ニュースに振り回されないための最後の防波堤になる。
※本記事は筆者個人の分析・見解であり、国際情勢の見通しや特定の投資行動を保証・推奨するものではありません。情勢は流動的で、記載の内容は執筆時点の報道に基づくものです。投資に関する最終判断はご自身の責任において行ってください。